三ケ所神社は熊本県との県境、宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町大字三ケ所に所在する。 昌泰三年(900)創建と伝えられ伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱を主祭神とする。 三ケ所神社の鳥居に掲げられる扁額「二神大明神」の由来と言えよう。 本来、二上山を山岳信仰の山としてとして崇め小さな祠を祭っていたようだが、冬季の参拝が困難であることから 山麓に社殿が建てられたという。 ○延岡藩主 有馬永純公直筆の扁額。↓ この地区は昔三ケ所村と呼ばれ高千穂十八ケ村の一つで、中世領主の三田井氏滅亡後、高千穂郷は領主が延岡城主に 引き継がれ、以後、高橋氏、有馬氏、三浦氏、牧野氏、内藤氏の歴代藩主の支配下に入った。 領内は延岡から遠く離れた辺鄙な地にも関わらず、とりわけ歴代藩主から特別の配慮や庇護を受けていたと思われるが、 そこに三ケ所神社の所在する「地」(天孫降臨の聖地)に理由があったと推察される。 現在、本殿と旧本殿が残され棟札によると旧本殿は亨保元年(1716)、本殿は文政元年(1818)に建てられたことが 分かっているが、本殿再建にあたり時の神主、原伊賀正管原重寛は延岡藩内藤家第十四代藩主、内藤政順公に願い出て 建築の許可を得、京都九条家に出入りしていた豊後原浦の名工、大工棟梁牧彦兵衛以下十五名を連れ帰り建築に着手、 境内に小屋掛けし二年がかりの建築工事で建立した。 本殿は色をまったく塗らない総欅造で三ケ所村廻淵地区にあった一本の巨大な欅から造られたと伝えられている。 根本は畳8~10枚が敷かれる大きさでその伐採の跡は現在でも確認される。 本殿の構造形式は三間社流造(さんけんしゃながれづくり)で、屋根には神社建築であることを示す「千木」(ちぎ)と言われる 交差させた木と、その間に樽状の飾りである鰹木(かつおぎ)が載っている。 ○正面、中央の扉には玉状の玉杢(タマモク/木目のこと)が用いられている。↓ 特筆したいのは本殿の建築彫刻であるが、種別としては人物、霊獣、動物、鳥類、植物、自然現象など多彩で九州地方では 希少な神社建築と言える。彫刻の総数は74体、中国の故事逸話や仙人を題材とした人物彫刻が5体ある。 なかでも中国故事、史家司馬遷の「許由と巣父の頴川に耳を洗う」の史記を表裏に彫った脇障子は興味深く、同じ絵柄が 日光東照宮の陽明門を入った本殿正門(唐門)の屋根の下に施されている。 江戸時代のものではあるが、基礎部分の枡組構造の美観、多彩な彫刻と回廊の連続組は桃山建築を思わせる美がある。 ○本殿、裏の脇社。↓ ○外部の縁を支持する腰組も他に類をみない。↓ ○組物は尾垂木付きの三手先で最高級の装飾が施されている。↓ 建築様式や彫刻体の意味など、ここでは書き尽くせない程の意味が込められた三ケ所神社。 社殿造営にあたり、天孫降臨へと展開する壮大な日本神話の伝承を中心に据えたストーリーが彫刻の主題であり、 神社教学の構築を意味する重要な要素であったのだろう。 当社は平成十四年十月、宮崎県有形文化財の指定を受けているが、歴史や造営の意味を知るにつれそれ以上の 価値を感じる。いつの日か再訪し境内に佇み彫刻群とじっくりと語り合いたいとの衝動に駆られる。 終わりに九州の山深い五ケ瀬の地にこれだけの神社彫刻建築が施され残っている事への驚愕と、それらを守ってきた 神社や五ケ瀬の、とりわけ三ケ所の人々に尊敬の念を抱くとともに敬意を表したい。 注:参考・引用資料① 「宮崎県有形指定文化財 三ケ所神社本殿、五ケ瀬町指定有形文化財同社旧本殿調査報告書」 参考・引用資料② 「近世大工の贈り物」
by littlepan
| 2008-10-18 21:44
| ●宮崎の自然と話題
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